私の投資履歴書~インデックスを添えて~

モノクロさん家(チ)の運用記

全世界への長期投資で地味かつ着実に資産が形成される(予定)

道端で老人を助けたら「20年後に資産がいくら」とかどうでもいいと思えてきた話

予定されていた打ち合わせが飛んだので、桜が満開になるも雨ですぐ散ってしまうとの思いから抜け出して散歩に出かけました。道中、おばあさんが倒れており助けましたが、ふと自分の生き方を考えてしまいました。

 

道端に倒れたおばあさん

桜を眺めながら日々の運動不足を解消するかのように歩け歩け大会を一人で実施していましたが、ふと倒れて動けなくなっているおばあさんが見え、本人も「助けてください」とこちらを呼んでいるので駆け寄って立ち上がるのを手助けしました。私も陰キャなので突然のことに意味不明なコミュニケーションを取ってしまいましたが、何とか起き上がらせて事なきを得た次第です。

 

20年後に資産がいくら

彼女がどのくらいの年齢か分かりませんが、70代、80代だと思しき感じだったので、年を取ると起き上がることすらできなくなってしまうのね、と当たり前のことを思いながらその後も歩いていたのですが、ふと「老後なんか待てないな」と思ったのです。

この投資界隈、複利の効果や長期投資などの文脈で、月●万円を20年運用すると、というような話が良く出ます。しかし、一般的な会話で20年後の話をすることってそんなに無いと思いますし、この時代、20年後がどうなっているかなんかさっぱり分からないのではないでしょうか。でもなぜか、投資の話だけは20年後というような長い時間軸をある意味確定的というか、確実なものとして捉えるような印象があります。

翻って、今回助けることができたおばあさんが何千万とか何億とか持っていたとして、なんかそれに意味というと言い過ぎですが、意義深いものがあるのかなと勝手に想像をしてしまいました。(趣味悪)

もう転んでも自分では立ち上がれないようになってから、手持ちの資産がいくらあってもそのお金の価値を100%引き出せるのか疑問だという事です。海外はおろか、北海道行こう、沖縄行こうとも言えないでしょうし、旅行が趣味ではないとしても身体や体力に関わることはかなり制限を受けると考えられます。同じ100万円でもそれを使ってできること自体に制限があるということになります。

戻って、20年後に手に入れた数千万円や数億円は、決して今手に入るのと同じ価値ではないということを思いました。現在価値的な経済的側面もそうですが、それ以上にもっと定性的なお金を使って得られるものの価値が等価ではないということです。

 

過去は変わらないもの、未来はわからないもの

一時期、著しい節約で資産を最高速度で作り上げるような風潮を感じることがありました。収入の8割を投資するというインフルエンサーの影響かとは思いますが。最近は見直されている気がしますが、やっぱり”今”にお金を使っていくことも大事だと再認識しました。動けなくなってからではお金を使っても得られることが限定的になる可能性が高いからです。

私もそうなのですが、投資が好きになったり、夢中になると今を犠牲にしてでも資産の足しになる資金配分をしがちになります。当然、消費ばかりしていればお金は貯まらないわけで、そのバランスが最も悩ましい人生の課題であるように思われます。

過去は変えられないし、未来はわからない。そういう時間軸の中で、未来志向が強いから投資をして将来の安心を得に行くわけですが、明日死ぬかもしれないという”今”を生きていることを忘れるわけにはいかないと思うのです。未来への投資と今を生きることのバランスをどうとっていくのか。答えはありませんが、自分が納得のいくお金の使い方をしなくてはいけないなと感じさせられました。

 

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