私はDIE WITH ZEROを読んだ時に何か頭で殴られた感じがして良い出会いだったなと思っていますが、そんなの無理という声も多い本です。それでも私はゼロで死のうと思っています。
DIE WITH ZERO
個人的には非常に好きな本でした。またそろそろ読み返そうかなと思っています。
帯が良い感じに煽っていますが、必要以上に金を貯めることに人生の時間を費やさず、その時その時に最大の価値を引き出して最後にはゼロで土に還れという話です。(雑)
資産額競争のように、私は何百万、俺は何千万、ダセェな俺なんか1億、2億...そういう情報開示が溢れている中、1円でも多く貯め込みたい気持ちは投資をすればするほど高まるものです。より早く、より多くを求めていく訳ですが、不思議なことにいくらになっても不足感を感じるし、まだまだという気持ちは収まらないものです。
私自身、大した資産も持っていませんが、継続的に入金し続けた結果、投資を始めた頃から見れば結構大きい金額にはなりました。それでも全然足りないと感覚的にも計算的にも思うのです。この調子では間違いなく1億2億くらいの規模では大して感覚は変わらないのでは、と思わぬでもありません。勿論実際そうなれば満足している自分になっているかもしれません。到達したことが無いので分からないだけです。
いずれにしても、生き方というか人生におけるお金の考え方として私はこの本から一種のパラダイムシフトを得た気がしています。実際子供たちへの残し方も考えましたし、そのための時間軸に整理し直して蓄財しています。またお金の使い方についても自分の価値観を改めて言語化して意識し直し、今は胸を張って支出すべきところに支出するようになりました。私にとっては良い本だった、ということです。
ゼロで死ぬことの現実性
意外と否定的なコメントも見られる同書ではあります。ゼロで死ぬのは現実的に無理だというコメントが多い気がしますが、それは仰る通りで恐らく十中八九無理です。私も五体満足に平穏に暮らすことが出来ればあと半世紀近い時間が死ぬまでにかかることになりますが、50年後のことを計画的に算段し、その通り進めて晴れてゼロで死ぬという発想は現実的ではありません。だからそういう指摘は全くもって正論なのです。ほぼ間違いなくゼロでは死ねず、お金は余るか不足するかで死を迎えることになります。また人間の臆病さを考えると、多くの場合は大なり小なり余った状態で死ぬことになるでしょう。それが現実だと思います。
問いを考えること
しかしこの本の問いは自分が死ぬ日にゼロになるよう死を予期して計画し、意図的にゼロへ持っていく計画性や予測性の話ではないように捉えています。資産ゼロとなった日に自分で命を絶つ他にそんなことを実現する手立てはありません。
ここでの問いは、なぜ目の前のお金を積み上げているのか?を自分に問えという事のように思われます。必要以上に稼ぐために費やす時間に何の意味があるのか?という事です。
間違っても稼ぐことを否定しているのではないという事です。起業家を中心にやりたくてやっている人はたくさんいます。投資だってお金を増やすゲームを楽しんでいるとするなら10億でも1兆でもそこに無意味なんてことはありません。そういうつまらない話ではないと思うのです。
きっとこの本は蓄財ではなくお金を使う方の話をしています。どう貯めるかではなく、何のために貯め、それをどう使うのが最も価値が大きく引き出せるか、を時間軸も踏まえて説いているに過ぎません。そういう意味で本当の出口戦略の話をしているものと思っています。
あまり短絡的に表面上の話で事を片付けるのは良くないように思われます。ゼロで死ぬのは無理だ、という話ではないということが大事なエッセンスじゃないでしょうか。100万でも1億でも1兆でも構いませんが、それを使うとするのであれば、人生においてどう価値発揮させて死ぬのかというもう少し深い話のように思われます。どう生きていくか、投資に限らず最後に残るのは自分の生き方だけです。
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